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大鳥居をくぐると、道は心持ち爪先あがりとなる。家並みが途切れ、もう一つ小さな白木の鳥居があって、いよいよ、境内に入ることになる、 松並木の参道を下る。太い古松もあるし、比較的新しそうな樹もある。江戸時代に植えられたものと、小林徳一郎の寄付した松が入り交じっているわけである。伊勢神宮ほど鬱蒼とした大木の森は見られないけれども、常緑の木立に囲まれた境内は、山陰の地にしては広々として明るい。古木の肌や緑が白砂と見事な調和を見せて続いている。 やがて本殿が姿を見せ、八雲山がうしろに迫ってくる。八雲山は神域となっているので、人間の立ち入りは禁じられている。少し赤みがかった色彩の拝殿と、後方の古色づいた渋い本殿とが、一つの対照を見せている。 拝殿の奥は暗い。いくつもの燈明がともり、白木の三宝が暗がりに浮かびあがっている。拝殿の前には、太くて、見るからに重々しい注連縄が張られている。この注連縄も大社の誇るものの一つで、重くて太いことで日本一である。本殿の高さもそうであるが、出雲大社は巨大なものへの志向の集合である。 拝殿の近くで、バスガイドが団体客を相手に、本殿の高さや屋根の上にある千木(屋根のむねの両側に交差させた長い木)の説明をしている。 「柏手は二つずつ、二度、合わせて四つ打って下さい。縁結びの神さまでございますから、四合わせ、つまり倖せになるようにという願いからでございます」 「千木にあいております穴は、ここから見上げますと、それほどの大きさとも思われませんが、実は人間がくぐりぬけることができる大きさを持っているのでございます」 団体客たちは、本殿の屋根の上の千木を眺め上げ、一様に讃嘆の声を洩らしている。 空を切る千木の形には神秘性がある。仮に千木にあいている穴を人間がくぐれなくても、直線的で、載然とした千木と勝男木{かつおぎ}の形には、胸の中に鬱積しているものを霧散させてしまうような明快さが見られる。 「拝殿の正面の注連縄は、長さ八メートル、重さニトン、真ん中の一番太いところは周りが四メートルあり、使った真菰は七千把だそうで、ございます」 バスガイドは団体客を率いて、本殿の前に移動していく。 出雲大社は『記紀』によると、神代に建てられたことになっている。歴史時代になってからは、いつ誰によって建てられたのかはっきりしない、神話によると、大国主命が天孫降臨の際に、国ゆずりをする代償として天孫族によって建ててもらったことになっている。その場所は「多芸志の小汀{たぎしのおばま}」とあり、現在の大社の所在地がそうであるとされている。 天照大神の第二子の天穂日命が、祭祀を司るよう命ぜられ、その子孫が大社宮司の千家と北島の両国造家であると伝えられる。 大国主命との約束に従って、天孫族の造営した宮は、「天の御舎{あまのみあらか}、天日隅宮{あめのひすみのみや}」と呼ばれる。『出雲風土記』および『記紀』では、それぞれに記述が違っている、短い表現の中に、いかに巨大なものを造ろうとしたかということを精いっぱい盛り込んでいる。次にその記述を挙げてみる。 『出雲風土記』には、 百子足天日柄宮の縦横の御量は、千尋栲縄持ちて、百結びに結び、八十結に結び下げて、此の天御量持ちて所造天下大神の営造り奉れ
とあり 『古事記』には、 天神の御子の天津日継知しめさん、とだる天之御菓如して、底津石板に、宮柱ふとりし、高天原に、氷木たかしりて
とある。 そして、『日本書紀』には、 千尋の栲縄を以て結いて百八十級にせん、その宮を造る制は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚くせん
と書いている。 大国主命は国をゆずるかわりに、太い柱と高い千木のある宮を建ててくれたら隠居しようと言ったのである。神話の世界のこととはいえ、おかしな取引である、そこで諸神に命じて宮は造られた。歴史時代になってからも、この神話の意志が生かされて、大国主命の祀られる出雲大社は何よりも巨大さを重要視してきたのである。 地名を現在は「大社」と呼ぶが、もとは「寸付{きずき}」といった。これが神亀三(726)年に杵築{きずき}と改められている。この前頃に、現在地にはじめて神殿が造られたのではないかという説が出されているが、確かなことはわかっていない。 もとよりこの説を裏づけるものは何もない。もともと出雲の国の一の宮は、意宇{おう}郡にある熊野神社であった。いつからか出雲大社が一の宮となり、社格も完全に入れかわる。おそらく、これは『記紀』の編纂と深くかかわっていることで、政治的な配慮のもとになされたことだろう。 |
これらはだいたい年代順に並んでいるのですが、屋根の形状と飾りに注目すると特徴が解りやすいです。特に僕は大社造に注目したい。
「大国主命は国をゆずるかわりに、太い柱と高い千木のある宮を建ててくれたら隠居しようと言ったのである。神話の世界のこととはいえ、おかしな取引である」
懸魚のなかに猪目とありましたね。これでピーンときました。懸魚は目なんです。
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大社と名のつく神社は多いが、”おおやしろ”と呼ばれるのは、出雲大社だけである。国ゆずりの神話にちなむ神社であるために、この世に二つとない”おおやしろ。であろうと努めてきた。 注連縄は太く、重く、本殿は高くと、部分も全体も巨大への志向を見せている。日本中の数ある神社で、建物にこのような志向を集中させている神社はないだろう。それだけでも出雲大社は特異な存在といってよい。 神社とは何をするところなのか、神社は誰のためにあるのか。出雲の生まれであるわたしにとって、出雲の大社と出雲人とのかかわりを考えることは長い間の主題であった。 ある時、ブラジルに移民していく人に会った。僅かな田畑を手放し、それを船賃にして、故郷を捨てて移民船に乗ろうとしていた。村を去るにあたって、村人は別れの会を催し、心ばかりの餞別を包んだ。それは世間並みの宴会や歓送会と比べればあまりに簡素で、ささやかな別れの会でしかなかったが、大きな決断をして故郷を捨てていく者に対して、何よりの励ましであった。 今度はいつ会えるか、もう二度と会えないかもしれない。それだけに送られる者も思いはこもごもで、こうして最後に送ってもらったことに抑えきれない昂ぶりがあったようだ。 移民者は、船上の人になってから言った。 「送り出してくれた村人たちに対しては、どんなにしてお礼返しをしたらいいかわからん、成功して金が入ったら、村の神社の屋根を葺き替えるか、神社に何か建てでもしなかったら、とてもつぐなえない」 感謝の気持を一軒一軒、一人ひとりに返していくことはできない。村の神社に何かをすれば、その人々に対してまとめてお返しすることになるといった考えは、何だろう。人々は、必ずしもそういうお返しの仕方に共感しないかもしれない。であっても、こういう考え方は、いつからか地域の人々の生き方に根をおろしていた。 神社はこういう形においても、人々のこころの中にあり続けてきた。これは一つの例にすぎないが、こういう形を取りながら神社と民衆はかかわってきた。神社の屋根を葺き替えるのは、祀られている神さまのためにするという考えよりも、氏子である村人の負担を軽くするために、それを一人でやる。そういう形でお礼返しをしたい。神社を考える上で、この移民者の言っている心情は落とせないと思った。
白い宇迦橋を渡って進むと、出雲大社の大鳥居がある。この鳥居は高さ七十五尺(約二十五メートル)、鉄筋コンクリート造りで、日本一高い鳥居である。これを建てて奉納した人は、小林徳一郎という元侠客である。 この鳥居が建つまでは、長州藩主・毛利輝元の孫毛利綱広(藩主)の寄進した鳥居が、大社の表門であった。すでにこのような近隣の藩主によって建てられた鳥居があるにもかかわらず、なぜ小林徳一郎の寄進による大鳥居が建てられることになったかを語っておかねばならない。
小林徳一郎の生まれたところは島根県の石見地方、邑智{おうち}郡高原村である。しかし、祖父や父にゆかりのあるところは出雲の仁多郡横田町であったので、小林には終生、出雲人という意識が強かった、小林の祖父は、たたら(製鉄業)に手をつけ、広島県の比婆郡比和村で仕事をし、父の清四郎も祖父の仕事を手伝っていた。やがてこの地での仕事がふるわなくなったので、石見の高原村に新しく仕事場をうつし移住したが、こちらもしだいに思わしくなくなった。清四郎は酒に身を崩し、僅かの収入もみな酒代に費やしてしまった。徳一郎は極貧の中で、たえることのない父母のいさかいと、母の涙を目にしながら物ごころついた。 母のツルは、働く意欲をなくし家を支えようとしない清四郎の腐りきった姿に愛想をつかして、生家の比和村に帰っていった。十三歳の徳一郎は母恋しさにあとを追って比和村に行き、母のもとで暮らした。翌年、母は三十四歳で病死した。 同じ年に祖父も亡くなったので、高原村に戻ると、世話する人があって村の鍛冶屋に奉公することになる。向こう打ち(親方の向かい側にいて大鎚で打つ役)などをしていたが、鍛冶屋の景気も芳しくなかった。そこで寺に小僧として住み込んだりもした。 家には父のほかに、姉と弟と妹がいた。少しでも家を支えられる収入を得たい。そのためにはどうしたらよいかと、そのことばかりを考えていると、 「九州の田川に行けば、石炭掘りの仕事がある。なんでも田川地方は炭坑がいくつもあって、仕事はいくらでもあるし、景気もいいらしい」ということを耳にした。 徳一郎はすぐにも九州の田川に行きたいと願った、しかし、手もとには旅費もない。 明治十八(1885)年は、徳一郎十六歳である、この年の暮れ、十三銭だけ持って九州に旅立った。無論、汽車などはないし、毎日歩き続けての旅である。数えの十六歳は、いまの中学三年生である、背は小さかったが、負けん気だけは強かった、村のお堂などの軒下で仮寝をしては、ひたすら田川をめざした。田川にさえ行き着けば、仕事にありつけると信じて、歩き続けた。 近くまで来て、どこの炭坑がよいだろうと、休んだ処でそれとなく訊ねてみると、 「蔵内次郎作を訪ねて行け、蔵内は峰地炭坑をやっていて、人物もいいし、きっと雇ってくれる」と、教えてくれる人がいた。 小林徳一郎がよくも悪くも、およそ出雲人らしからぬ人間に育ったのは、早くに故郷を出て、炭坑という荒っぽい世界に身を置いて、存分に辛酸をなめたことが大きく働いている。 見ず知らずの人が、通行人でしかない十六歳の少年に、「蔵内という人の所へ行け」と教えてくれたのは、外れていなかった。徳一郎は、着いた翌日から雇われて働くことができた、 それから約十年、炭坑で働きながら、荒くれ男ばかりの世界で、顔を売っていった、体は小さかったので、体格による押し出しはなかったが、鍛冶屋で金槌をふるって向こう打ちをさせられたことが手伝って、腕力は強く、動きは敏捷であった。いさかいが起きて立ち回りとなれば、負けを知らなかった。加えて度胸がよかった。 他人の喧嘩に割って入り、仲裁もしたし、人の面倒もみた。しだいに立てられて、この一帯で知らぬ者のない侠客になっていた。広島の大親分肥田利助に明治二十八(1895)年六月、熊本の本妙寺で生命をかけた決闘を申し入れたりするが、明治三十(1897)年の結婚を機にこの世界から足を洗い、工事の現場監督になった。 のちに独立して工事を請け負うようになり、小倉の築港工事、貯水池、十二師団の糧秣倉庫などを手がけ、明治三十八(1905)年には運送業、荷役、回漕問屋と手を広げ、多少の蓄財もする。その後、小倉師範、小倉中学校、小倉米町小学校などの校舎と博多水族館、博多須崎の築港などを請け負い、小倉に根拠を置いて請負業者として産を成し、北九州地方において小林の手がけた工事は数えきれぬほどの量に達した。 のちには北朝鮮で炭坑を経営し、八代湾の干拓工事をなし遂げるが、侠客から足を洗い、請負師として稼いだ金を何に使ったかといえば、ほとんど寄付に当てたのである。「寄付魔」という語が小林に冠せられるほど、各地に寄付し続け、その一部が出雲大社の大鳥居になったのである。 明治において出雲大社の大宮司であり、第八十代国造{こくぞう}であった千家尊福{せんげたかとみ}は、伊藤博文のすすめに従って政界に進出した。貴族院議員となり、静岡県知事、埼玉県知事、東京府知事などを歴任し、司法、大臣にもなった。 政治活動のかたわら神道「出雲大社教」を結成し、公認やその普及などに働いたが、そのために巨額の負債をつくった。一説には、他人の手形のウラ判を引き受けて大損害を受けたのだともいわれるが、破産騒ぎを巻き起こした。尊福は貴族院議員の「木曜会」のリーダーでもあったので、この負債問題は当時の政治家の間でも深刻な話題となった。『原敬日記』にも、明治四十一(1908)年八月四日の項に書かれている。原敬に手を貸してくれるよう、尊福が頼んだのである。そこで原敬は西国寺公望を訪ねて、打つべき手を相談したりしたのであるが、名案は浮かばなかった。千家、負債多く、其中には甚だ筋の悪しきものありて救済を頼まるるも、閉口の次第なり。と、記している。 明治四十三(1910)年三月三日にも、この負債のことにふれ、木曜会までが千家の負債問題で混乱をきたしている旨が書かれている。 尊福は、明治十六、七年頃、すでに負債に苦しんでいたので、明治天皇に借金を申し込んだ。皇室を相手にして、まさか冗談ではなかったはずである。あくまでも本気で頼んだと思われるが、実現はしなかった。民間の富豪に救けを求めるのではなく、よりによって天皇に頼んだのには、それなりの理由がある。皇室と千家は『記紀』以来の、いわば親戚であるという意識が働いていたからである。額は「四千両」とあるので(『神道学』第三十四号。千家尊堂の談話。尊堂は尊福の孫)、四千円だったろうか。 ともかく千家の負債問題は九州にも聞こえてきた。小林徳一郎は小倉にいて、これは一大事だと思った。請負師の徳一郎と、もと大社大宮司の千家尊福とは、何の面識もない。それであっても、徳一郎は「出雲の名家」を金のことで潰してはいけない、と思った。このあたりが徳一郎独特の感覚でもある。もうじっとしていられなくなり、手もとにあった二十万円を鞄に詰め込むと、夜汽車にとび乗った。 千家尊福の破産整理を引き受けていたのが、原敬内閣の司法大臣をやった大木遠吉である。大木喬任の長男で、貴族院議員の中でも異色の人であった。小林徳一郎は東京駅に着くと、車を拾って芝葦手町にあった大木遠吉のところに乗りつけ、案内を乞うた。無論、大木も小林に面識はないし、小林の名も知らなかった。 それでも押しかけてきた小林に会ってみると、小林は千家の負債の穴埋めに使っていただきたいと、二十万円の現金を取り出した。明治の末に二十万円が、どれくらいの大金であったかは知らない。また、この時千家の負債総額がどれだけであったかも定かでない、しかし、小林の申し出は千家にとって、まさに天体といってよいものであった。 見ようによっては小林の行為は、奇矯なものにもとれた。大木が訊ねるに、小林は千家と何のゆかりもない。つながりを探せば、“出雲”という地縁だけである。小林の生まれたところは石見であるけれども、祖父や父の血筋から出雲人という意識があり、それだけに千家への思い入れもまた普通の者以上に強かった。 大木は小林の差し出した金をよろこんで受け取り、当の千家尊福も小林とこれを機にして親交を結ぶことになる。尊福は小林に最大の危機を救ってもらったことから、以後、小林の方へ足を向けて寝ることができなくなった。 ここで大鳥居寄進の話が出る。小林の胸の中に、日本一の大鳥居を自分の手で建てたいという野望に似たものがあり、それが頭をもたげたのである。 鳥居には名が大きく刻まれる。藩主の名前であったりすれば納得する者も多いが、元侠客の名では大社としても多分に蹟曙するものがある。そういうことから小林の寄進に反対する声もあった。 ・・・いくらなんでも、天下に誇る神社である。『記紀』神話の主要部分を構成するに欠かせない、重要な神社である。しかも、すでに毛利綱広の寄進になる鳥居があるではないか。それをまるで無視でもするかのように、一番の表参道に小林が建てるとはどういうことか。 千家尊福はともかくとして、他の神社関係者や出雲人たちは、こころからこのことを歓迎することはできなかった。私財を投げうって出雲大社に鳥居を寄進してもよいと考える者は、全国にたくさんいた。かなりの金額であっても、出雲大社の表参道に自らの名を刻んで建てておくことは、一つの快感につながったからである。人間の生命は短く、人間は必ず死んでいく。それだけ、に鳥居を建てて名を刻んでおけば、名前だけは永久にこの世に残すことができる、それを思えば、鳥居の費用は安いものである。 もちろん、大社としては名もなき庶民などの寄進は固く断ってきた。ただ財力さえあれば、誰の寄進を受けてもよいというものではない。村の神社などはそれでもよかろうが、伊勢神宮と並んで日本の神道界を担っている代表的な神社である。しかし大社の大宮司千家尊福は、すでに小林の寄進をどんな形にしろ断ることのできない立場に置かれていた。 十六歳の時に、僅か十三銭を懐中にして、雪の降っている故郷を後にした少年の屈辱感は、裏返された形で出雲の空に向けて翔んでいた。 ・・・出雲大社に巨大な鳥居を建てる。 このことによって、あの惨めであった日の悲しみを埋め合わせ、財を成し、成功者の一人となったことを、出雲中の人間が集まってくる表玄関に印しておきたい、 請負師として人夫を使い、多少の金が入るようになったことが、成功者のうちに入るかどうかは別として、小林の中に一つの満足が生まれ、そのような形で自分の存在をこの世に印しておきたいと願う気持が生まれたのである。小林は大社だけでなく、ほかにも多くの寄付をおこなっているので、その行為の裏にあった心情は単なる名誉欲や自己顕示欲だけではなく、もっといろんな感情の合わさったものであったろう。 「金さえあれば、誰にでも許されるというものではない」という思いが、ずっと人々のこころの中にあり、それは無言の約束事のようになっていた一それが小林の出現によってにわかに破られ、小林の寄進は現実のことになった。 大正四(1915)年、大正天皇の御大典記念ということで、大鳥居は建ち、それに加えて参道に松の樹数百本が寄進された。無論、この費用は多大であって、村々で農業をしている者などには、とても不可能なことであった。そう誰にでもできない、いわば奇特なことをしてくれた小林に本来ならこころから感謝すべきであるのに、小林の行為を正当に評価しようとしない向きがあった。人々の、小林のおこなったことへの思いは、複雑であった、 出雲大社のある大社町から日脚碕神社に行く道は狭い。ある部分は海べりの断崖にあって、海の荒れる日は波にさらわれていかれそうで、ひどく危険であった。出雲大社にお参りして、ついでに日脚碕神社に足をのばそうという者は多い。小林は大社町から日脚碕村に向けて人車道を開設する資金も寄付し、ここに道をつけた。 熊本の本妙寺は加藤清正の菩提寺で、法華宗の九州総本山である。小林は、大正九(1920)年にこの本妙寺にも山門を寄付した。また、小林が生まれた石見一島根県)の高原村に、基本財産として山林五十六町歩を寄付し、高原村役場の営繕費を寄付し、川本農学校の敷地も寄付した。小倉市には外国製の消防自動車を贈った。 さらに島根県仁多郡横田町の、稲田神社の社殿とその参道、および境内敷地などを寄付した。小林の祖父や父はこの横田から出た人で、小林の古い親戚も多かったので、横田は小林にとって特別に縁の深い処であった。 もともと横田には、スサノオノミコトの妃である稲田姫を祀る、ほんの小祠に近い神社があった。村社にもなっていない無格社である。小林はその神社を造り替え、まず敷地を広げ、県道から神社までの参道を拡大整備し、これまでの規模とは比べものにならぬ堂々たる拝殿を建てた。いわば財力にものを言わせて、神社一つを無に近い状態から造り上げたに等しかった。 このほか、法政大学には約六百冊におよぶ中国の漢籍を寄付(小林文庫)し、そして彼の生涯において最大の請負であった八代湾干拓を手がけ、完成させた、しかし、これが結局は小林の生命取りとなり、多大な借財を背負うことになる。 小林は小倉に居を定め、小倉の市会議員になったり、公会堂を建てて市に寄付したりして、小倉へ小林億一郎の名を刻む稲田神社の鳥居の貢献度は大きかった。いま、小倉の勝山公園には頌功碑が建てられていて、碑銘には、「長ずるに従い、仁侠の人と為り壮にして・西日本に於ける侠客として知らる」、「代々、砂鉄採取を業とせしも、時の変遷に家運衰頽す」などと刻まれている。この碑文の後には、鳩山一郎、林譲治、益谷秀次、大野伴睦など政治家の名が刻まれていて、小林の交友の一面を物語っている。大野伴睦はその回想録の中で、「忘れ得ぬ人々」の一番手に、小林を挙げている。私の交友録には、風変りな人物が多い。小林徳一郎親分もその一人である。彼は世にいう快男児で、北九州一帯の大親分だった。気ッぷのいいことは天下無類、大いに稼いでは、意気に感じると、大いに散じた男で、いまのセチがらい世の中では、見当らないスケールの大きな愉快な男 (『大野伴睦回想録』)であった。大野伴睦が鳩山一郎の紹介ではじめて小林に会ったのは、昭和二(1927)年で小林が五十八歳の時である。 小林は大野伴睦に、 「先生、わたしは金があると、東京に散じにくるのです。今後とも、上京の折はぜひお近づきを願いします」と、言った。 この日は、鳩山一郎を囲んで三人で昼食をしただけで別れた。 一ヵ月ほど経った頃、伴睦のところに小林から電話がかかり、「上京して来たから、一杯、お付き合い願いたい」と誘いがかかった。以後、小林は上京のたびに、伴睦と赤坂、新橋の花柳界を飲み歩いた。飲み代は、もちろん、全部小林持ちである。 伴睦は、もと政友会の院外団で、鳩山一郎などの推挙を得て東京市会議員となっていた。昭和五(1930)年二月に衆議院総選挙がおこなわれることになり、伴睦はこれに打って出ようと腹を決めていた。小林はこれを聞くとすぐに上京して、「立候補の門出を祝って、赤坂で飲みましょう」と、伴睦を誘った。その晩、二人は赤坂の料亭「永楽」で派手に飲んだ、宴会の最中に「先生、選挙費用の一部に使って下さい」と、小切手をくれた。酔眼朦朧としていたので「ありがとう」と受け取って、ポケットにねじ込んだ。このとき、ちらりと額面をみると、数字の頭文字は「壱」となっている。 「ははア、一千円もくれたな」ぐらいで、確かめもせずに杯に酒をついでもらった。 翌朝、目が覚めると前夜もらった小切手を思い出した。上着のポケットに手を入れると、なるほど紙片が入っている。手にしてみて驚いた。額面は千円に非ず、。一万円とある。五円札一枚でゆっくり遊べた時代の一万円だ、「これは見違えたかな」宿酔の目をこすって、もう一度ながめたがやはり「壱万円也」である、「なんと気前のいい男だろう」私もいささかびっくりさせられた、 (前掲書)
鳩山一郎以下、前に挙げた政治家と小林の結びつきはどのようなことであったのか詳らかでないが、伴睦とはこのような付き合いであった。 大社の大鳥居を建てた者は、こういう人間だった。いま、鳥居の裏側に小林の名は大きく、深く刻み込まれている。しかし、神社関係の案内書やパンフレットに、大鳥居の高さが二十五メートルあり、これは日本一のものであるということは繰り返し強調されていても、小林の名はどこにも見当たらない。 これはどうしたことだろう。よけいなことを勘ぐりたくなるほど、見事に小林の名は抹殺されている。
出雲大社を『記紀』神話から始めて、禁裡(皇居、宮中)との関係を説き、並の神社とはいかに違うかという認識を徹底させるために貢献した人は幾人も出ているが、千家尊福もその一人である、尊福は、白樺派の詩人として知られる千家元麿の父である。尊福には本妻があり、三人の娘もいたが、政治家として東京両国の料亭「青柳」に通っているうちに、「青柳」の長女と親しくなった。彼女は小川豊子といい、梅崖と号する閨秀画家である。尊福はこれを妾とし、元麿は彼女を母として生まれた、 元麿は、妾腹の子という宿命を背負っていたことで苦悶し、若い頃は家出をしたりして、不良化し親を手こずらせた。しかし、のちには素朴で、純粋な美しい詩をつくり、『白樺』を代表する詩人として認められた。 尊福は文部大臣井上毅の求めに応えて、「一月一日の歌」の歌詞をつくった。「一月一日の歌」というのは、終戦まで小学校において、元旦には必ず歌われた有名な歌である。
年のはじめのためしとて 終りなき世のめでたさを 松竹たてて門ごとに 祝ふ今日こそたのしけれ という歌詞である。 おそらく四十五歳以上の人で、この歌を知らない人はいないだろう。明治二十六年八月に官報において公布され、以後、拝賀式などで歌われることになったものである。 尊福は旧派の歌人であって、多才であった。しかし、歌づくりよりも、尊福が生命がけでかかわったものは、神道の問題と政治である。伊藤博文のすすめに従い、出雲大社の大宮司の職を弟にゆずって、官界に出る、神道管長から大教院、元老院議官、文部省普通学務局長などを経たのち、東京府知事や司法大臣を務め、政治家として活躍する。
明治のはじめに大教院が設置された時のことである。明治政府は祭政一致をかかげ、神祇官を再興した。これが明治四(1871)年には神祇省と改称され、同五(1872)年には教部省となる。 教部省では神社と寺院に関する行政と宣教活動をおこなうことになり、まず国民の教化にあたるための「教導職」が設けられた。この教導職は、神官と僧侶から選ばれることになったが、実地の教化にあたる前に、しっかり学習をして、それなりの知識、教養を身につけさせておかねばならない。 そこで教導職の養成機関として、大教院が設置さた。はじめ、大教院は麹町にあり、のち増王寺に移された。しだいに僧侶たちは、大教院から別れていくことになるが、そういう動きをきっかけとして、神道内部においては「祭神」をめぐって論争が巻き起こった。
大教院の祭神は、天御中主神{あまのみなかぬしのみこと}、高皇産霊神{たかみむすびのみこと}、神皇産霊神{かむみむすびのみこと}、天照大神{あまてらすおおみかみ}の四柱と決められていた。千家尊福は、これに大国主命{おおくにぬしのみこと}を加えて五柱とすべきことを主張した。大国主命は、言うまでもなく出雲大社の祭神である。本居宣長や平田篤胤の流れをくむ神道家および学者は、この意見に賛成した。しかし、伊勢神宮の大宮司である田中頼庸を中心とする伊勢派は、千家の主張を容れようとしなかった。 千家尊福は執勘に論陣を張り、四度までも提議をおこなった。そのため日本中の神社は出雲派と伊勢派の二つのグループに分かれ、対立する形となり、論争は腕艇と続けられ、容易に決着がつかなかった。副島種臣や大隈重信が取調委員に選ばれたが、結論は得られなかった。 明治十四(1881)年一月、天皇の勅裁によることとなって、尊福は遂に敗北するに至る。しかし、尊福の繰り広げた神道論は堂々たるものであって、彼なりに教義を体系化していることを示し、単なる思いっきなどではなく、神道そのものの理論を深めることに役立った。同時に、出雲大社と出雲神道の存在をより広く日本中に認識させることにもなった。 江戸時代に御師(寺社に祈願する時に仲介をする祈祷師の称一たちの活躍によって、出雲大社の信仰は「甲子講」とか「出雲講」と呼ばれて、信仰団体が各地につくられていった。尊福は、まず「出雲大社敬神講」を結成し、これを「出雲大社教会」と改めて、教部省から認可を受けた。そして自ら一介の行者の姿となって、衆庶を教化し、大社教の組織をつくるために各地を巡回して歩いた。 いま出雲大社の年賀参拝客の投げる賽銭が、一年間の総収入の半分から、三分の二に達するという繁栄ぶりを見せているのも、尊福のねばり強い布教活動に負っているところがある。 |
