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一つ目小僧、神の社
辻褄合わせはお手の物
 
前回までで、一つ目小僧がどんなモノか見当が付いてきたのではないかと思います。えっ?わっかんない? ・・・実は書いてる本人も訳わかんなくなってきてますので我慢して下され。(^^)
 
さてさて、これは、ホントの話なのですが、僕の娘が片言で言葉を話し始めた頃、娘に聞いてみました・・・
「○○ちゃんはどっからきたのかなあ?」
と聞くと娘は
「あっち・・・」
さらに
「ママのおなかに入る前は何してたのかなあ?」
「とんでた・・・」
そして3歳の頃に布団から顔を出してきょろきょろしていたので母親が
「何か居るの?」
と聞くと
「片っぽの目の人が笑ってるの・・・」
と嬉しそうに答えたそうです
そんな娘も5歳になりました。今夜は寝入りばなに
「どうしてこんなに可愛い子が家にやって来てくれたんだろう?」
と、じゃれ合いながら母親が聞くと
「だって楽しそうだったから・・・」
かみさんにはこの一連の一つ目小僧の話はしてなかったのですが・・・
 
さて、本題です。
 
さて、この人も異常に高い机や、写真には顔の片側か目を伏せた物しかないことから片目だったのではないかと言われていますが・・・とっても怪しい人物です。まるで日本の神道の秘密を探りに来た隠密のようですな。なぜって? 日本に来るなり出雲参りですよ・・・
 
小泉八雲 Lafcadio Hearn 1850-1904
作家、評論家、随筆家。ギリシア生れの英国人。19歳で米国に渡り、新聞記者となった。1890年来日、松江中学に赴任し、小泉節子と結婚。日本の文化、風土を愛して1895年帰化し小泉八雲を名乗った。日本の印象記《知られぬ日本の面影》(1894年)や短編集《怪談》を英語で発表。
 
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小泉八雲の描いた大社
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 小泉八雲は松江に英語の教師として赴任し、出雲大社への参詣をおこなった。その時の様子を特異な感覚で、見事に描いている。
 
 「『杵築』・・・日本最古の神社・・・」と題する文である。
 
 八雲がはじめて参詣したのは明治二十三(1890)年で、まだ山陰線は開通しておらず、松江から船で宍道湖を渡り、湖西の荘原に上がり、そこから人力車に乗っている。日本人が神社にお参りしても、八雲ほどに喜びと感動をもって神社のことを描けるだろうか。八雲の感性は細部にゆきわたり、対象を的確に捉えている。
 
「神国」のうちで、最も清浄な国は、出雲の国である。
 
出雲人をこの上なく喜ばせ、口にしただけで身がひきしまり、こころが洗われるようである。
 
 出雲のなかでも、杵築はとくに神の都であって、そこにある古い神社こそは、この国の古代信仰である、神道という偉大な宗教が発祥した、本家本元なのである。
 
 八雲は、出雲人以上に出雲のこころを知っており、出雲人の泣きどころを的確に押さえている。八雲は「いなばや」に宿を取り、その夜のうちに一度提燈に火を入れて、いなばやの主人の案内で参詣する。
 
 わたしは、尋ねた。
「この杵築の大社は、伊勢の神社よりも古いのではございませんか」
「ずっと古うございます」
と宮司は答える。
「ちょっと年代がわからんくらい古うございます、神々だけがおいでのころに、天照大神の御命令によりまして、初めて当大社は建てられたのでございますから。その当時は、社殿もひじょうに宏壮なもので、高さ三十二丈、梁や柱などは、とても今日の木材ではつくれぬくらい大きなもので、骨組などは長さ一千尋の栲の緒でつくりました綱で、しっかりとくくってあったものです」
 
「ちょっと年代がわからんくらい古い」というところが、意味深長である。
八雲は巫女舞を見る。異国人の目が、その舞を分析的に、冷静に捉えている。
 
ふしぎな音楽がわきおこった。大鼓と竹笛の音である。
 
楽人が三人、畳の上に坐っているなかに、若い少女がひとり見える。
 
 少女がずっと立ち上がった。素足に雪白の装束をつけたこの少女は、処女の巫女なのである。よくみると、白衣の裾から緋の絹袴がちらちら光っている。巫女は、部屋のまんなかにおいてある、小さな机の前にすすみ出る。机の上には、小さな鈴のついた、なにか木の枝のような形をした奇妙な道具が、ひとふり置いてある。巫女は、この奇妙な道具を両手にとりあげると、神楽舞をはじめた。
 
これは、わたしがかつて見たこともない踊りであった。巫女の一挙一動は、さながら詩である、それは舞いてがすこぶる優雅だからである。が、その舞いの所作は、われわれ西洋人がいうダンスということばなどでは、いかにしても言いあらわすことのできないものだ。むしろ、これはひとつの円のなかを、軽く足早に歩くといった所作である。そして、そういう所作を舞い歩きながら、例の手にささげもった奇妙な道具を、一定の時をおいて打ち振るのである。すると、それについている小さな鈴が、いっせいにちりちりと鳴る。
 
巫女の顔は、美しい面のように、筋ひとつ動かさない、まるで夢見る観音の顔のように、しずかで、美しいのである。その白い素足は大理石にきざんだ水精{ニンフ}の足のように、じつに線がきれいだ。雪白の衣裳と、白いししむらと、おちついたその顔と、この三つのものがあいまって、日本の乙女というよりは、むしろ、生きている彫像のように見える。そうして、巫女が舞っているあいだ、怪しい笛の音がすすり泣き、かきくどき、大鼓が呪文のような低いつぶやきを唱えるのである
 
 八雲は、西洋人ではじめて本殿に上がることを詐された者である。それだけに抑えがたい喜びをもって描いている。八雲の観察は、子供の頃からただ漫然と巫女舞を見ていたわたしたちにとって衝撃であり、驚きである。まったく平凡で取るに足りないと思われていたものが、八雲の目を通すと、途端に生々と生彩を放ってくる。わたしたちが見落としてしまっていたものを、一つ一つ丁寧な手つきで拾い上げて示してくれる。
 
 拝殿では、絶え間なくお神楽があげられ、参詣者が引きもきらず賽銭をあげている。
 たいていの参詣者は小銭を投げるが、なかには、ごく貧しいもので、ひとつかみの米を箱のなかへ投げ入れるものもある。寮銭を投げてから、みな敷居の前でかしわ手を打ち、頭を下げて、拝殿の奥にある一段高い神殿に向かって、うやうやしく目礼をしている。参詣者はみな、そこのところにちょっとしばらく立ち止まって、かしわ手を四つ打つだけなのだが、なにしろ、入れかわり立ちかわり来るもの帰るものが多いから、かしわ手の音がまるで滝の音のようだ。
       (平井呈一訳、『小泉八雲全集』)
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 見るべきものは落とさず見ようと、よほど心して参詣しても、とても八雲ほどに鮮やかに静的な像を捉えることはできない。八雲の鋭い感性によって多くを教えられ、そのことに驚くのである。
 本殿の周りに瑞垣があって、その正面に八尺門がある。平素、八尺門をくぐって瑞垣の内に入ることは許されない、しかし、特別に”お庭ふみ。と称して申し込めば中に入れてもらえ、本殿をより間近に拝することができる。
 わたしは“お庭ふみ”を申し込んだ。白い布を首にかけて八足門をくぐると、足元には玉砂利が敷きつめられていて廻廊や観察楼を内側から眺めることができる。若い神官が笏を持ち、冠をかむり、木製の浅沓をはいて案内に立つ。瑞垣によって外のざわめきがさえぎられ、はるか遠くの地の底の方からどろどろと、お神楽をあげる鼕(つづみ)の昔が幽かに聞えて来る・・・
・・・「『杵築』・・・日本最古の神社・・・」と題する文である。
この「杵築」とは「きずき」と読みます。現在は「大社{たいしゃ}」と呼ばれていますが、出雲大社の当時の地名のことです。そして「杵築」と呼ばれる以前は・・・なんと寸付{きずき}」と呼ばれていました。さあ! 僕の大好きな「寸」だらけです! 「寸付」を素直に読めば「ずき」ではないですか!
 
そして、一般には、「出雲大社」と呼ばれていますが、江戸時代の改修工事などに関する書覧を見ますと「出雲杵築大社」と書かれていて、この「きずき」には、端折ることは能わぬ重みを感じるのです。「」という文字が封印されたのであれば、この「寸付」こそ「」であった可能性は高いのでは?キーワードは・・・「えだなし」の巻においてこの「」の伝承は出雲と熊野に見られると書きましたが・・・
 
以下、祖田浩一著「神の塔」より・・・

 

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大国主命と天日栖宮{あめのひすみのみや}

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 大鳥居をくぐると、道は心持ち爪先あがりとなる。家並みが途切れ、もう一つ小さな白木の鳥居があって、いよいよ、境内に入ることになる、

 松並木の参道を下る。太い古松もあるし、比較的新しそうな樹もある。江戸時代に植えられたものと、小林徳一郎の寄付した松が入り交じっているわけである。伊勢神宮ほど鬱蒼とした大木の森は見られないけれども、常緑の木立に囲まれた境内は、山陰の地にしては広々として明るい。古木の肌や緑が白砂と見事な調和を見せて続いている。

 やがて本殿が姿を見せ、八雲山がうしろに迫ってくる。八雲山は神域となっているので、人間の立ち入りは禁じられている。少し赤みがかった色彩の拝殿と、後方の古色づいた渋い本殿とが、一つの対照を見せている。

 拝殿の奥は暗い。いくつもの燈明がともり、白木の三宝が暗がりに浮かびあがっている。拝殿の前には、太くて、見るからに重々しい注連縄が張られている。この注連縄も大社の誇るものの一つで、重くて太いことで日本一である。本殿の高さもそうであるが、出雲大社は巨大なものへの志向の集合である

 拝殿の近くで、バスガイドが団体客を相手に、本殿の高さや屋根の上にある千木(屋根のむねの両側に交差させた長い木)の説明をしている。

 「柏手は二つずつ、二度、合わせて四つ打って下さい。縁結びの神さまでございますから、四合わせ、つまり倖せになるようにという願いからでございます」

 「千木にあいております穴は、ここから見上げますと、それほどの大きさとも思われませんが、実は人間がくぐりぬけることができる大きさを持っているのでございます」

 団体客たちは、本殿の屋根の上の千木を眺め上げ、一様に讃嘆の声を洩らしている。

 空を切る千木の形には神秘性がある。仮に千木にあいている穴を人間がくぐれなくても、直線的で、載然とした千木と勝男木{かつおぎ}の形には、胸の中に鬱積しているものを霧散させてしまうような明快さが見られる。

 「拝殿の正面の注連縄は、長さ八メートル、重さニトン、真ん中の一番太いところは周りが四メートルあり、使った真菰は七千把だそうで、ございます」

 バスガイドは団体客を率いて、本殿の前に移動していく。

 出雲大社は『記紀』によると、神代に建てられたことになっている。歴史時代になってからは、いつ誰によって建てられたのかはっきりしない、神話によると、大国主命が天孫降臨の際に、国ゆずりをする代償として天孫族によって建ててもらったことになっている。その場所は「多芸志の小汀{たぎしのおばま}」とあり、現在の大社の所在地がそうであるとされている。

 天照大神の第二子の天穂日命が、祭祀を司るよう命ぜられ、その子孫が大社宮司の千家と北島の両国造家であると伝えられる。                   

 大国主命との約束に従って、天孫族の造営した宮は、「天の御舎{あまのみあらか}、天日隅宮{あめのひすみのみや}」と呼ばれる。『出雲風土記』および『記紀』では、それぞれに記述が違っている、短い表現の中に、いかに巨大なものを造ろうとしたかということを精いっぱい盛り込んでいる。次にその記述を挙げてみる。

 『出雲風土記』には、

 百子足天日柄宮の縦横の御量は、千尋栲縄持ちて、百結びに結び、八十結に結び下げて、此の天御量持ちて所造天下大神の営造り奉れ

「ももちたろあめのひすみのみや」の縦横の御量{みはかり}は、「ちひろたくなわ」持ちて、百結{ももむす}びに結び、八十結{やそむすび}に結び下げて、此の「あめのみはかり」持ちて「あめのしたつくらししおおかみ」の営造り奉れ

とあり 『古事記』には、

 天神の御子の天津日継知しめさん、とだる天之御菓如して、底津石板に、宮柱ふとりし、高天原に、氷木たかしりて

 天神の御子の「あまつひつぎしろ」しめさん、とだる「あまの み す な」して、「そこついわね」に、宮柱ふとりし、高天原に、氷木{ひぎ}たかしりて    

とある。

 そして、『日本書紀』には、

 千尋の栲縄を以て結いて百八十級にせん、その宮を造る制は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚くせん

「ちひろ」の栲縄{たくなわ}を以て結いて百八十級{ももやそむすび}にせん、その宮を造る制は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚くせん

と書いている。

 大国主命は国をゆずるかわりに、太い柱と高い千木のある宮を建ててくれたら隠居しようと言ったのである。神話の世界のこととはいえ、おかしな取引である、そこで諸神に命じて宮は造られた。歴史時代になってからも、この神話の意志が生かされて、大国主命の祀られる出雲大社は何よりも巨大さを重要視してきたのである。

 地名を現在は「大社」と呼ぶが、もとは「寸付{きずき}」といった。これが神亀三(726)年に杵築{きずき}と改められている。この前頃に、現在地にはじめて神殿が造られたのではないかという説が出されているが、確かなことはわかっていない。

 もとよりこの説を裏づけるものは何もない。もともと出雲の国の一の宮は、意宇{おう}郡にある熊野神社であった。いつからか出雲大社が一の宮となり、社格も完全に入れかわる。おそらく、これは『記紀』の編纂と深くかかわっていることで、政治的な配慮のもとになされたことだろう。

 
『出雲風土記』の所造天下大神とは「あめのしたつくらししおおかみ」であり、その意味するところは「天の下を造られた大神」であり、伊弉諾尊・伊弉冉尊{いざなぎのみこといざなみのみこと}とだぶってしまいます? 
 
出雲神話
出雲を中心とする神話。高天原(たかまがはら)を追われた素戔嗚(すさのお)尊は出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して同地方を治め、その裔(すえ)大国主神はさらに国土を経営したが、天孫降臨のまえ、その国土を奉れとの天照大神の命に応じて政権を離れて隠退。《出雲国風土記》にはこの趣を伝えることがうすい。
 
「千木」は《古事記》上で「氷木」と表されています。「ひぎ」です。ちょいと年表を見てみましょう。
 
712 太安麻呂が《古事記》を撰上する
713 諸国に《風土記》撰上を命ずる
720 舎人親王らが《日本書紀》を撰上する
726 出雲大社所在地を寸付から杵築と改める
729 長屋王の変が起こる
733 この年の《出雲風土記》が完全に現存
 
長屋王 ながやおう 684-729
天武天皇の孫、高市(たけち)皇子の子。藤原不比等(ふひと)死後の721年右大臣、724年聖武天皇即位とともに左大臣に進み、藤原氏に対抗する勢力をなした。729年謀叛(むほん)があると密告され、妻子とともに自殺(長屋王の変)。
 
風土記
713年元明(げんめい)天皇の詔をうけ諸国が作成した地誌の総称。郡郷の地名の由来・地形・産物・古伝説などを調査し中央政府に報告。大半は現存しないが、天平5年(733年)2月30日の日付のある《出雲国風土記》が完全に現存。常陸(ひたち)・播磨(はりま)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)のものが部分的に残る。
 
《出雲国風土記》については713年に命じた物が20年後にまとまったなんて変ですね。そして出雲だけが完全に残っているという偶然? ましてや《古事記》がまとまった翌年に諸国の歴史の資料を探し始めるなんて順序が逆でしょう。そして藤原氏の陰謀臭い長屋王の死。そしてその間の出雲大社所在地名の改変。なんなんでしょうねえ、これは? 「寸付」じゃ都合が悪かったのでしょうか・・・
 
さて、出雲大社では大国主神を祭っており建御名方神{たけみなかたのかみ}は次子にあたります。建御名方神は国譲りに反対し、武甕槌(たけみかづち)神と力比べをして争ったが敗れ、信濃の諏訪にのがれました。諏訪大社と言えば御柱祭りが有名ですね。興味を惹かれるところですが、今回のテーマは出雲の一つ目小僧なのでそろそろ参りましょうか・・・
 
神社建築 
 
神をまつるための建築で、本殿、拝殿、舞殿、祝詞舎(のりとや)、鳥居などからなる。磐座・磐境(いわくら・いわさか)、神籬(ひもろぎ)を前身とし、おそくとも古墳時代には存在したと考えられる。建築様式は住吉造、神明造、大社造、大鳥造、春日(かすが)造、流(ながれ)造、権現(ごんげん)造、浅間(せんげん)造、八幡造、日吉(ひえ)造など多種。
 
1.神明造、2.大社造、3.住吉造、4.春日造
 
5.流造、6.八幡造、7.日吉造、8.権現造、
 
これらはだいたい年代順に並んでいるのですが、屋根の形状と飾りに注目すると特徴が解りやすいです。特に僕は大社造に注目したい。
 
 
 
下図は当初の出雲大社の想像図ですが高さがなんと32丈{約96m}あったと伝承されています。真偽のほどはともかく、そんな巨大な物が当時に建築可能であったのかどうかでも論議を呼んでいます。現在は8丈{約24m}ですが、それでもその大きさは神社の中で一番です。
 
寺院の方では東大寺の七重の塔が33丈{約100m}あったそうなんですが・・・
 
 
 
 
 
大国主命は国をゆずるかわりに、太い柱と高い千木のある宮を建ててくれたら隠居しようと言ったのである。神話の世界のこととはいえ、おかしな取引である
 
 確かに不思議です。柱は神の依代{よりしろ}となる物ですから基本ではあります。神社の前身としての神籬(ひもろぎ)は棒でも木の枝でも杖でも何でも立ててしまえば神の依代{よりしろ}とされるような所があって、鯉幟{こいのぼり}でさえルーツは神籬のようです。そういえばこの「幟」という字も「Ψ」が入ってますね。「巾」という字は布が三本垂れ下がった形と言うことです。意味は布のことですが、「きん」とも読みます。「きん」が「king」ならばまた「天国=Kingdom」へ繋がっていってしまいそうです。
 
右上図を見てもらえば解るように中心の柱がメインなのですが実は前後三本とも「宇豆の柱」と呼ばれるのです。確かに三柱の神のようではありますが・・・大社は堅魚木も三本です。
 
「宇豆」も「うず」で「渦巻き」を暗示してるような気もします。とにかく巨大でなくてはいやだというのは「僕がいっちば〜ん」というお山の大将、猿山の猿ですな!・・・ははは
 
天井に書かれている七つの雲の由来は不明であり、役人が神道は八が神聖な数なのだし八雲とも言うのだからもう一つ書き足せ!という騒動も過去にあったそうです。
 
さてさて、千木と堅魚木に至っては単なる飾りでしかありません。飾りであるのなら何かを象徴している・・・と考えてもちんぷんかんぷんですが・・・
 
千木 ちぎ
神社の本殿等で、棟の上に置かれるX形の木、または破風(はふ)の先端が交差し突出した部分。比木(ひぎ)ともいう。神社建築を象徴する一要素。
 
千木の頭を男神は垂直に落とし、女神は水平に落とす。伊勢神宮は水平にカットされています。その伊勢神宮も一番大切なのはお宮の下にある影の御柱とされています。「お陰参り」はここから付いたのかも知れませんね。「アマテラス」は太陽神なのに「お陰様」と呼ばれる。まあ女性と女陰、洞穴と考えればその通りなのですが、じゃあ本当の日なたの神、男神は?・・・そびえ立つ男根のごとき出雲なのでしょうか?
 
堅魚木 かつおぎ
勝男木とも書く。形が鰹節に似るためこの名があるといわれる。神社の本殿屋上棟木に直角の方向に並べられる木。実用的意味よりも荘厳を添えるためのもの。大嘗宮で8本、住吉造で5本、神明造で10本、大社造で3本、春日造では細く黒塗りなどである。
 
懸魚 げぎょ
屋根の妻におき破風(はふ)の下にたらし、棟木(むなぎ)や桁(けた)を隠す飾板。破風の拝み下のものを懸魚、左右の桁部分のものを桁隠という。五角形の鉢懸魚、猪目(いのめ)の形の猪目懸魚、三花懸魚等。
 
懸魚のなかに猪目とありましたね。これでピーンときました。懸魚は目なんです。
 
 
これは出雲大社のてっぺんの写真ですが、懸魚が六角形であり、出っ張ってるのが解るでしょうか?
 
 
 
確か「塗仏」という妖怪も目が飛び出していました。中国の三星堆遺跡の人物像も目が飛び出していました。関係あるかな?
 
 
 
今一度「釋」が「一つ目小僧」に繋がる図をご覧下さい・・・
 
 
 

 

 
 
そして・・・こうなって・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
こうなる!
 
完成!
 
出雲大社のような屋根のかけ方を「切妻屋根」と呼びます。横を「側{がわ}」と呼び正面を「妻」と呼びます。
 
 
今回のサブタイトルの「辻褄合わせはお手の物」とは、国字である「辻」つまり「の道」と「妻」を合わせると言うことだったんです・・・ははは
 
 こうして見ると神社の象徴するモノが解ったような解らないような不思議な気持ちです。また振り出しに戻ってしまったような・・・
 
「東西神話の類似」については戦後になって研究されている方は沢山いるので、先人たちとは違った角度から一アマチュアとして勝手気ままに書いてきたわけです。資料としては一般の辞書でありネット上の情報、原書の研究書の研究書といった二次情報ならぬ三次情報がメインなので信憑性云々どころの話ではありませんが、ホントのような嘘の話し、嘘のようなホントの話しもあることですからここを読んでる皆さんもぜひご自分で推理、考察、調査をお試しになることをお薦めします。結構これが面白いですよ。
 
「謎の列島神話 アマテラスの死と征服王朝」を著した佐治芳彦氏があとがきでこんなことを書いてます。
 
あとがき
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「東西神話の類似」について
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「東西神話の類似」について語ることは、それ(類似)が否定できない事実であるにもかかわらず、かつては否定的に受けとめられてきた。たしかに戦前、この「事実」に敢然とアプローチした人々の仮説は、多くの貴重な創見や示唆を含みながらも、同時に学界から荒唐無稽と評されてもやむをえないような点を併せて含んでいたこともまた、否定できない事実である。
 その、つまり「荒唐無稽」の原因はいろいろ考えられるが、だいたい次の二つに絞られるのではなかろうか。すなわち、
 
 1-この「東西神話の類似」という壮大な主題に学問的に接近するには、客観的なデータがあまりにも不十分だったこと。つまり、これは本人の責任というよりも、むしろ歴史民族学や比較神語学、あるいは人類学などの当時の水準に帰せられるべき点が多いということだ。
     、    、
 2-これは当時の日本の学問的風土ないし知的雰囲気の問題に還元できる。つまり、皇国史観一辺倒という知的−学問的環境を考えてみなければならない。より具体的にいえば、神話(日本神話)は、あくまでも「万世一系」「天壌無窮」(天地とともにきわまりない)天皇を讃えるべき叙事詩であり、それに対して科学的批判や解釈を下したりするのは不敬にあたるとされていた(そのために逮捕され、その著書を発禁にされたケースもある)。
 だいたい、この二つの理由(いずれも時代的制約といえるが)から、この主題についての仮説の多くは、学問的に見て「荒唐無稽」として無視されざるをえなかったわけである。たしかに、それこそ「荒唐無稽」な万世一系−天壌無窮の神話を基準として、つまり物差しとして引いた青写真(仮説)が「荒唐無稽」なものになるのは当然である。設計者(仮説提示者)を非難するよりも、そのような物差ししか使用を許さなかった権力機構をまず非難するのがスジというものではあるまいか……。
 一方、この辺の状況をよくわきまえている学者たちは、このようなホットな主題に接近するような「愚」を避けた。つまり「君子あやうきに近よらず」である。彼らは「君子」の立場(安全な立場)から、あえて「風車」に挑戦したドンキホーテを潮笑したわけだが、むしろ潮笑される
べきは、その能力もデータもより多くにぎっていながら、「風車」に挑戦はおろか、近よりもしなかった臆病な連中ではあろう。
 だが、戦後「状況」が変わった(少なくとも「変わった」ように思われた)。歴史民族学や比較神話学、宗教人類学などが、天皇制の呪縛(皇国史観)から脱して大胆な(といっても戦前にくらべての話だが)発想を展開しはじめた。
 江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝」説もその一つだし、吉田敦彦氏の日本神話と印欧神話とのア大陸における馬匹飼育遊牧民ないしその後身ともいうべき騎馬民族の活躍を前提としていることである。つまり、東西神話の類似をもたらしたのは、ユーラシア大陸を縦横に移動したこれらの人々だったということだ。
 日本史家のあいだでの、江上理論についての評価は・・・率直にいえば・・・否定的である。あのような魅惑的! とも思える仮説に対する否定的な姿勢の根拠はいろいろあるが、つきつめれば、古代における朝鮮半島のもつ歴史的−文化的意味ともいうべきものについての評価の問題に帰するのではあるまいか。その点、江上説はあまりに朝鮮半島にバイアスをかけすぎているものと受けとられる面もなくはない……。
 一方、私から見れば、江上説以上! に衝撃的で、しかも壮大と思われる吉田神話学については、日本の古代史家や宗教家、それに日本文化研究者たち多くが沈黙している。それは過去の皇国史観にこりて、歴史(古代史)研究から「神話」を排除したいという心情からか(「羮に懲りて胞を吹く」のたぐい)。あるいは吉田神話学に言及すれば、江上説を少なくとも大綱において肯定せざるをえなくなるという危倶からか。まさか、たんなる視野狭窄からではあるまいが・・・。いずれにしても私からは理解できないことである。
 だが「東西神話の類似」については、もう一つのアプローチがあるのだ。それは、スイスの心理学者で、フロイトと分かれ、独自の分析的心理学でもって、人間の「無意識」の世界にアプローチしたC・G・ユングの「人類的集団無意識」の仮説からのものである。
 
 彼は、生物としての人間の身体を眺めてみると、そこには人類共通の形質があることは否定できないが(だからこそ「人類」という概念が成立する)、それと同じく、人間の考えやこころ(精神。魂)の働きにも人類共通のものがあると考え、その人類共通のものを「人類的集団無意識」とよんだ。
 つまり、人間のこころの奥底には、祖先が経験したものの名残りのようなものがあり、それは人類に普遍的(共通)であるだけでなく、祖先の考え方を含んでいることから「古態型」arche-type(「元型」「神話型」ともいう)と名づけた。つまり、それは集団無意識から作られた人類の
根元的なイメージである。
 人間のさまざまなイメージはすべて、この「古態型」のはたらきから生み出される。したがって、人間の描くイメージには、根元的なものになればなるほど、当然、個人的、文化的なちがいを超えた共通的なものが見られることになる。したがって、神話の登場人物(神々)についてのイメージにも人類共通のものがあって当然、なければ不思議ということになろう。
 すなわち、まず基本にこのユングの人類的集団無意識の古態型(神話型・元型)の仮説をおき、それに吉田敦彦氏の古代ユーラシア大陸の馬匹飼育遊牧民ないし江上波夫氏の騎馬民族の活動についての仮説を重ねれば「東西神話の類似」の謎も、おのずと学問的にも解明されるのではあるまいか。
 天皇制の成立を含む「列島神話の謎」も、このような学際的なアプローチに解明できるというのが私の基本的な立場である。私は、かねてこのような立場から、日本列島の古代史を読み解くべく試みてきたが、本書では、日本の大本神としてのアマテラスに一応焦点を絞って、この神の汎世界性について考えてみた。
 戦後、日本史をたんなる列島史ではなく、東アジア史の一環としてとらえるという動きがさかんになった。だが、その射程を朝鮮半島や中国、東南アジアに限定するといったチャチな構想ではなく、それこそ世界史との連関においてとらえなおすという時期にそろそろさしかかっているのではあるまいか。
 このような歴史感覚は、専門の歴史学者よりも一般市民のほうがはるかにシャープなように思えるが、それは、もともと歴史を創るのが学者ではなく、一般民衆であることからすれば当然といってよいだろう。私は、この歴史を創り、それに参加している市民の一人として、さらに歴史の一つの反省として「東西神話の類似」という主題について、アマテラスを中心に私なりの考えを不完全ながらまとめてみた。これが本書である。
 なお、執筆にさいしては、多くの先学の、それこそ学恩をかたじけなうした。改めて厚く御礼を申し述べたい。                 (文中、敬称は略させていただいた)
 一九九〇年二月
                                       佐治芳彦
どうですか?
楽しんでもらえてますか?
引き延ばした割には
つまらなかったかなあ?
あとはシャーマニズムと「猿{sal}」のことを書いて
今年は終わりにしようっと! Violet monkey
つづく・・・
 
PS・お詫びの印に・・・
これは出雲大社の大鳥居の物語です。話のうんちくにどうぞ・・・
今はなき侠客のお話です

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出雲大社−神社とは何をするところか

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 大社と名のつく神社は多いが、”おおやしろ”と呼ばれるのは、出雲大社だけである。国ゆずりの神話にちなむ神社であるために、この世に二つとない”おおやしろ。であろうと努めてきた。

 注連縄は太く、重く、本殿は高くと、部分も全体も巨大への志向を見せている。日本中の数ある神社で、建物にこのような志向を集中させている神社はないだろう。それだけでも出雲大社は特異な存在といってよい。

 神社とは何をするところなのか、神社は誰のためにあるのか。出雲の生まれであるわたしにとって、出雲の大社と出雲人とのかかわりを考えることは長い間の主題であった。

 ある時、ブラジルに移民していく人に会った。僅かな田畑を手放し、それを船賃にして、故郷を捨てて移民船に乗ろうとしていた。村を去るにあたって、村人は別れの会を催し、心ばかりの餞別を包んだ。それは世間並みの宴会や歓送会と比べればあまりに簡素で、ささやかな別れの会でしかなかったが、大きな決断をして故郷を捨てていく者に対して、何よりの励ましであった。

 今度はいつ会えるか、もう二度と会えないかもしれない。それだけに送られる者も思いはこもごもで、こうして最後に送ってもらったことに抑えきれない昂ぶりがあったようだ。

 移民者は、船上の人になってから言った。

 「送り出してくれた村人たちに対しては、どんなにしてお礼返しをしたらいいかわからん、成功して金が入ったら、村の神社の屋根を葺き替えるか、神社に何か建てでもしなかったら、とてもつぐなえない」

 感謝の気持を一軒一軒、一人ひとりに返していくことはできない。村の神社に何かをすれば、その人々に対してまとめてお返しすることになるといった考えは、何だろう。人々は、必ずしもそういうお返しの仕方に共感しないかもしれない。であっても、こういう考え方は、いつからか地域の人々の生き方に根をおろしていた。

 神社はこういう形においても、人々のこころの中にあり続けてきた。これは一つの例にすぎないが、こういう形を取りながら神社と民衆はかかわってきた。神社の屋根を葺き替えるのは、祀られている神さまのためにするという考えよりも、氏子である村人の負担を軽くするために、それを一人でやる。そういう形でお礼返しをしたい。神社を考える上で、この移民者の言っている心情は落とせないと思った。

 

 

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大鳥居を建てた寄付魔

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 白い宇迦橋を渡って進むと、出雲大社の大鳥居がある。この鳥居は高さ七十五尺(約二十五メートル)、鉄筋コンクリート造りで、日本一高い鳥居である。これを建てて奉納した人は、小林徳一郎という元侠客である。

 この鳥居が建つまでは、長州藩主・毛利輝元の孫毛利綱広(藩主)の寄進した鳥居が、大社の表門であった。すでにこのような近隣の藩主によって建てられた鳥居があるにもかかわらず、なぜ小林徳一郎の寄進による大鳥居が建てられることになったかを語っておかねばならない。

 

 小林徳一郎の生まれたところは島根県の石見地方、邑智{おうち}郡高原村である。しかし、祖父や父にゆかりのあるところは出雲の仁多郡横田町であったので、小林には終生、出雲人という意識が強かった、小林の祖父は、たたら(製鉄業)に手をつけ、広島県の比婆郡比和村で仕事をし、父の清四郎も祖父の仕事を手伝っていた。やがてこの地での仕事がふるわなくなったので、石見の高原村に新しく仕事場をうつし移住したが、こちらもしだいに思わしくなくなった。清四郎は酒に身を崩し、僅かの収入もみな酒代に費やしてしまった。徳一郎は極貧の中で、たえることのない父母のいさかいと、母の涙を目にしながら物ごころついた。

 母のツルは、働く意欲をなくし家を支えようとしない清四郎の腐りきった姿に愛想をつかして、生家の比和村に帰っていった。十三歳の徳一郎は母恋しさにあとを追って比和村に行き、母のもとで暮らした。翌年、母は三十四歳で病死した。

 同じ年に祖父も亡くなったので、高原村に戻ると、世話する人があって村の鍛冶屋に奉公することになる。向こう打ち(親方の向かい側にいて大鎚で打つ役)などをしていたが、鍛冶屋の景気も芳しくなかった。そこで寺に小僧として住み込んだりもした。

 家には父のほかに、姉と弟と妹がいた。少しでも家を支えられる収入を得たい。そのためにはどうしたらよいかと、そのことばかりを考えていると、

 「九州の田川に行けば、石炭掘りの仕事がある。なんでも田川地方は炭坑がいくつもあって、仕事はいくらでもあるし、景気もいいらしい」ということを耳にした。

 徳一郎はすぐにも九州の田川に行きたいと願った、しかし、手もとには旅費もない。

 明治十八(1885)年は、徳一郎十六歳である、この年の暮れ、十三銭だけ持って九州に旅立った。無論、汽車などはないし、毎日歩き続けての旅である。数えの十六歳は、いまの中学三年生である、背は小さかったが、負けん気だけは強かった、村のお堂などの軒下で仮寝をしては、ひたすら田川をめざした。田川にさえ行き着けば、仕事にありつけると信じて、歩き続けた。

 近くまで来て、どこの炭坑がよいだろうと、休んだ処でそれとなく訊ねてみると、

 「蔵内次郎作を訪ねて行け、蔵内は峰地炭坑をやっていて、人物もいいし、きっと雇ってくれる」と、教えてくれる人がいた。

 小林徳一郎がよくも悪くも、およそ出雲人らしからぬ人間に育ったのは、早くに故郷を出て、炭坑という荒っぽい世界に身を置いて、存分に辛酸をなめたことが大きく働いている。

 見ず知らずの人が、通行人でしかない十六歳の少年に、「蔵内という人の所へ行け」と教えてくれたのは、外れていなかった。徳一郎は、着いた翌日から雇われて働くことができた、

 それから約十年、炭坑で働きながら、荒くれ男ばかりの世界で、顔を売っていった、体は小さかったので、体格による押し出しはなかったが、鍛冶屋で金槌をふるって向こう打ちをさせられたことが手伝って、腕力は強く、動きは敏捷であった。いさかいが起きて立ち回りとなれば、負けを知らなかった。加えて度胸がよかった。

 他人の喧嘩に割って入り、仲裁もしたし、人の面倒もみた。しだいに立てられて、この一帯で知らぬ者のない侠客になっていた。広島の大親分肥田利助に明治二十八(1895)年六月、熊本の本妙寺で生命をかけた決闘を申し入れたりするが、明治三十(1897)年の結婚を機にこの世界から足を洗い、工事の現場監督になった。

 のちに独立して工事を請け負うようになり、小倉の築港工事、貯水池、十二師団の糧秣倉庫などを手がけ、明治三十八(1905)年には運送業、荷役、回漕問屋と手を広げ、多少の蓄財もする。その後、小倉師範、小倉中学校、小倉米町小学校などの校舎と博多水族館、博多須崎の築港などを請け負い、小倉に根拠を置いて請負業者として産を成し、北九州地方において小林の手がけた工事は数えきれぬほどの量に達した。

 のちには北朝鮮で炭坑を経営し、八代湾の干拓工事をなし遂げるが、侠客から足を洗い、請負師として稼いだ金を何に使ったかといえば、ほとんど寄付に当てたのである。「寄付魔」という語が小林に冠せられるほど、各地に寄付し続け、その一部が出雲大社の大鳥居になったのである。 

  明治において出雲大社の大宮司であり、第八十代国造{こくぞう}であった千家尊福{せんげたかとみ}は、伊藤博文のすすめに従って政界に進出した。貴族院議員となり、静岡県知事、埼玉県知事、東京府知事などを歴任し、司法、大臣にもなった。

  政治活動のかたわら神道「出雲大社教」を結成し、公認やその普及などに働いたが、そのために巨額の負債をつくった。一説には、他人の手形のウラ判を引き受けて大損害を受けたのだともいわれるが、破産騒ぎを巻き起こした。尊福は貴族院議員の「木曜会」のリーダーでもあったので、この負債問題は当時の政治家の間でも深刻な話題となった。『原敬日記』にも、明治四十一(1908)年八月四日の項に書かれている。原敬に手を貸してくれるよう、尊福が頼んだのである。そこで原敬は西国寺公望を訪ねて、打つべき手を相談したりしたのであるが、名案は浮かばなかった。千家、負債多く、其中には甚だ筋の悪しきものありて救済を頼まるるも、閉口の次第なり。と、記している。

 明治四十三(1910)年三月三日にも、この負債のことにふれ、木曜会までが千家の負債問題で混乱をきたしている旨が書かれている。

 尊福は、明治十六、七年頃、すでに負債に苦しんでいたので、明治天皇に借金を申し込んだ。皇室を相手にして、まさか冗談ではなかったはずである。あくまでも本気で頼んだと思われるが、実現はしなかった。民間の富豪に救けを求めるのではなく、よりによって天皇に頼んだのには、それなりの理由がある。皇室と千家は『記紀』以来の、いわば親戚であるという意識が働いていたからである。額は「四千両」とあるので(『神道学』第三十四号。千家尊堂の談話。尊堂は尊福の孫)、四千円だったろうか。

 ともかく千家の負債問題は九州にも聞こえてきた。小林徳一郎は小倉にいて、これは一大事だと思った。請負師の徳一郎と、もと大社大宮司の千家尊福とは、何の面識もない。それであっても、徳一郎は「出雲の名家」を金のことで潰してはいけない、と思った。このあたりが徳一郎独特の感覚でもある。もうじっとしていられなくなり、手もとにあった二十万円を鞄に詰め込むと、夜汽車にとび乗った。

 千家尊福の破産整理を引き受けていたのが、原敬内閣の司法大臣をやった大木遠吉である。大木喬任の長男で、貴族院議員の中でも異色の人であった。小林徳一郎は東京駅に着くと、車を拾って芝葦手町にあった大木遠吉のところに乗りつけ、案内を乞うた。無論、大木も小林に面識はないし、小林の名も知らなかった。

 それでも押しかけてきた小林に会ってみると、小林は千家の負債の穴埋めに使っていただきたいと、二十万円の現金を取り出した。明治の末に二十万円が、どれくらいの大金であったかは知らない。また、この時千家の負債総額がどれだけであったかも定かでない、しかし、小林の申し出は千家にとって、まさに天体といってよいものであった。

 見ようによっては小林の行為は、奇矯なものにもとれた。大木が訊ねるに、小林は千家と何のゆかりもない。つながりを探せば、“出雲”という地縁だけである。小林の生まれたところは石見であるけれども、祖父や父の血筋から出雲人という意識があり、それだけに千家への思い入れもまた普通の者以上に強かった。

 大木は小林の差し出した金をよろこんで受け取り、当の千家尊福も小林とこれを機にして親交を結ぶことになる。尊福は小林に最大の危機を救ってもらったことから、以後、小林の方へ足を向けて寝ることができなくなった。

 ここで大鳥居寄進の話が出る。小林の胸の中に、日本一の大鳥居を自分の手で建てたいという野望に似たものがあり、それが頭をもたげたのである。

 鳥居には名が大きく刻まれる。藩主の名前であったりすれば納得する者も多いが、元侠客の名では大社としても多分に蹟曙するものがある。そういうことから小林の寄進に反対する声もあった。

 ・・・いくらなんでも、天下に誇る神社である。『記紀』神話の主要部分を構成するに欠かせない、重要な神社である。しかも、すでに毛利綱広の寄進になる鳥居があるではないか。それをまるで無視でもするかのように、一番の表参道に小林が建てるとはどういうことか。

 千家尊福はともかくとして、他の神社関係者や出雲人たちは、こころからこのことを歓迎することはできなかった。私財を投げうって出雲大社に鳥居を寄進してもよいと考える者は、全国にたくさんいた。かなりの金額であっても、出雲大社の表参道に自らの名を刻んで建てておくことは、一つの快感につながったからである。人間の生命は短く、人間は必ず死んでいく。それだけ、に鳥居を建てて名を刻んでおけば、名前だけは永久にこの世に残すことができる、それを思えば、鳥居の費用は安いものである。

 もちろん、大社としては名もなき庶民などの寄進は固く断ってきた。ただ財力さえあれば、誰の寄進を受けてもよいというものではない。村の神社などはそれでもよかろうが、伊勢神宮と並んで日本の神道界を担っている代表的な神社である。しかし大社の大宮司千家尊福は、すでに小林の寄進をどんな形にしろ断ることのできない立場に置かれていた。

 十六歳の時に、僅か十三銭を懐中にして、雪の降っている故郷を後にした少年の屈辱感は、裏返された形で出雲の空に向けて翔んでいた。

 ・・・出雲大社に巨大な鳥居を建てる。

 このことによって、あの惨めであった日の悲しみを埋め合わせ、財を成し、成功者の一人となったことを、出雲中の人間が集まってくる表玄関に印しておきたい、

 請負師として人夫を使い、多少の金が入るようになったことが、成功者のうちに入るかどうかは別として、小林の中に一つの満足が生まれ、そのような形で自分の存在をこの世に印しておきたいと願う気持が生まれたのである。小林は大社だけでなく、ほかにも多くの寄付をおこなっているので、その行為の裏にあった心情は単なる名誉欲や自己顕示欲だけではなく、もっといろんな感情の合わさったものであったろう。

 「金さえあれば、誰にでも許されるというものではない」という思いが、ずっと人々のこころの中にあり、それは無言の約束事のようになっていた一それが小林の出現によってにわかに破られ、小林の寄進は現実のことになった。

 大正四(1915)年、大正天皇の御大典記念ということで、大鳥居は建ち、それに加えて参道に松の樹数百本が寄進された。無論、この費用は多大であって、村々で農業をしている者などには、とても不可能なことであった。そう誰にでもできない、いわば奇特なことをしてくれた小林に本来ならこころから感謝すべきであるのに、小林の行為を正当に評価しようとしない向きがあった。人々の、小林のおこなったことへの思いは、複雑であった、

 出雲大社のある大社町から日脚碕神社に行く道は狭い。ある部分は海べりの断崖にあって、海の荒れる日は波にさらわれていかれそうで、ひどく危険であった。出雲大社にお参りして、ついでに日脚碕神社に足をのばそうという者は多い。小林は大社町から日脚碕村に向けて人車道を開設する資金も寄付し、ここに道をつけた。

 熊本の本妙寺は加藤清正の菩提寺で、法華宗の九州総本山である。小林は、大正九(1920)年にこの本妙寺にも山門を寄付した。また、小林が生まれた石見一島根県)の高原村に、基本財産として山林五十六町歩を寄付し、高原村役場の営繕費を寄付し、川本農学校の敷地も寄付した。小倉市には外国製の消防自動車を贈った。

 さらに島根県仁多郡横田町の、稲田神社の社殿とその参道、および境内敷地などを寄付した。小林の祖父や父はこの横田から出た人で、小林の古い親戚も多かったので、横田は小林にとって特別に縁の深い処であった。

 もともと横田には、スサノオノミコトの妃である稲田姫を祀る、ほんの小祠に近い神社があった。村社にもなっていない無格社である。小林はその神社を造り替え、まず敷地を広げ、県道から神社までの参道を拡大整備し、これまでの規模とは比べものにならぬ堂々たる拝殿を建てた。いわば財力にものを言わせて、神社一つを無に近い状態から造り上げたに等しかった。

 このほか、法政大学には約六百冊におよぶ中国の漢籍を寄付(小林文庫)し、そして彼の生涯において最大の請負であった八代湾干拓を手がけ、完成させた、しかし、これが結局は小林の生命取りとなり、多大な借財を背負うことになる。

 小林は小倉に居を定め、小倉の市会議員になったり、公会堂を建てて市に寄付したりして、小倉へ小林億一郎の名を刻む稲田神社の鳥居の貢献度は大きかった。いま、小倉の勝山公園には頌功碑が建てられていて、碑銘には、「長ずるに従い、仁侠の人と為り壮にして・西日本に於ける侠客として知らる」、「代々、砂鉄採取を業とせしも、時の変遷に家運衰頽す」などと刻まれている。この碑文の後には、鳩山一郎、林譲治、益谷秀次、大野伴睦など政治家の名が刻まれていて、小林の交友の一面を物語っている。大野伴睦はその回想録の中で、「忘れ得ぬ人々」の一番手に、小林を挙げている。私の交友録には、風変りな人物が多い。小林徳一郎親分もその一人である。彼は世にいう快男児で、北九州一帯の大親分だった。気ッぷのいいことは天下無類、大いに稼いでは、意気に感じると、大いに散じた男で、いまのセチがらい世の中では、見当らないスケールの大きな愉快な男                       (『大野伴睦回想録』)であった。大野伴睦が鳩山一郎の紹介ではじめて小林に会ったのは、昭和二(1927)年で小林が五十八歳の時である。

 小林は大野伴睦に、

「先生、わたしは金があると、東京に散じにくるのです。今後とも、上京の折はぜひお近づきを願いします」と、言った。

 この日は、鳩山一郎を囲んで三人で昼食をしただけで別れた。

 一ヵ月ほど経った頃、伴睦のところに小林から電話がかかり、「上京して来たから、一杯、お付き合い願いたい」と誘いがかかった。以後、小林は上京のたびに、伴睦と赤坂、新橋の花柳界を飲み歩いた。飲み代は、もちろん、全部小林持ちである。

 伴睦は、もと政友会の院外団で、鳩山一郎などの推挙を得て東京市会議員となっていた。昭和五(1930)年二月に衆議院総選挙がおこなわれることになり、伴睦はこれに打って出ようと腹を決めていた。小林はこれを聞くとすぐに上京して、「立候補の門出を祝って、赤坂で飲みましょう」と、伴睦を誘った。その晩、二人は赤坂の料亭「永楽」で派手に飲んだ、宴会の最中に「先生、選挙費用の一部に使って下さい」と、小切手をくれた。酔眼朦朧としていたので「ありがとう」と受け取って、ポケットにねじ込んだ。このとき、ちらりと額面をみると、数字の頭文字は「壱」となっている。

「ははア、一千円もくれたな」ぐらいで、確かめもせずに杯に酒をついでもらった。

 翌朝、目が覚めると前夜もらった小切手を思い出した。上着のポケットに手を入れると、なるほど紙片が入っている。手にしてみて驚いた。額面は千円に非ず、。一万円とある。五円札一枚でゆっくり遊べた時代の一万円だ、「これは見違えたかな」宿酔の目をこすって、もう一度ながめたがやはり「壱万円也」である、「なんと気前のいい男だろう」私もいささかびっくりさせられた、                                    (前掲書)

 

 鳩山一郎以下、前に挙げた政治家と小林の結びつきはどのようなことであったのか詳らかでないが、伴睦とはこのような付き合いであった。

 大社の大鳥居を建てた者は、こういう人間だった。いま、鳥居の裏側に小林の名は大きく、深く刻み込まれている。しかし、神社関係の案内書やパンフレットに、大鳥居の高さが二十五メートルあり、これは日本一のものであるということは繰り返し強調されていても、小林の名はどこにも見当たらない。

 これはどうしたことだろう。よけいなことを勘ぐりたくなるほど、見事に小林の名は抹殺されている。

 

 

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神道界における出雲派の総帥・千家尊福

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 出雲大社を『記紀』神話から始めて、禁裡(皇居、宮中)との関係を説き、並の神社とはいかに違うかという認識を徹底させるために貢献した人は幾人も出ているが、千家尊福もその一人である、尊福は、白樺派の詩人として知られる千家元麿の父である。尊福には本妻があり、三人の娘もいたが、政治家として東京両国の料亭「青柳」に通っているうちに、「青柳」の長女と親しくなった。彼女は小川豊子といい、梅崖と号する閨秀画家である。尊福はこれを妾とし、元麿は彼女を母として生まれた、

 元麿は、妾腹の子という宿命を背負っていたことで苦悶し、若い頃は家出をしたりして、不良化し親を手こずらせた。しかし、のちには素朴で、純粋な美しい詩をつくり、『白樺』を代表する詩人として認められた。

 尊福は文部大臣井上毅の求めに応えて、「一月一日の歌」の歌詞をつくった。「一月一日の歌」というのは、終戦まで小学校において、元旦には必ず歌われた有名な歌である。

 

  年のはじめのためしとて 終りなき世のめでたさを 松竹たてて門ごとに 祝ふ今日こそたのしけれ

 という歌詞である。

 おそらく四十五歳以上の人で、この歌を知らない人はいないだろう。明治二十六年八月に官報において公布され、以後、拝賀式などで歌われることになったものである。

 尊福は旧派の歌人であって、多才であった。しかし、歌づくりよりも、尊福が生命がけでかかわったものは、神道の問題と政治である。伊藤博文のすすめに従い、出雲大社の大宮司の職を弟にゆずって、官界に出る、神道管長から大教院、元老院議官、文部省普通学務局長などを経たのち、東京府知事や司法大臣を務め、政治家として活躍する。

 

 明治のはじめに大教院が設置された時のことである。明治政府は祭政一致をかかげ、神祇官を再興した。これが明治四(1871)年には神祇省と改称され、同五(1872)年には教部省となる。

 教部省では神社と寺院に関する行政と宣教活動をおこなうことになり、まず国民の教化にあたるための「教導職」が設けられた。この教導職は、神官と僧侶から選ばれることになったが、実地の教化にあたる前に、しっかり学習をして、それなりの知識、教養を身につけさせておかねばならない。

 そこで教導職の養成機関として、大教院が設置さた。はじめ、大教院は麹町にあり、のち増王寺に移された。しだいに僧侶たちは、大教院から別れていくことになるが、そういう動きをきっかけとして、神道内部においては「祭神」をめぐって論争が巻き起こった。

              

 大教院の祭神は、天御中主神{あまのみなかぬしのみこと}、高皇産霊神{たかみむすびのみこと}、神皇産霊神{かむみむすびのみこと}、天照大神{あまてらすおおみかみ}の四柱と決められていた。千家尊福は、これに大国主命{おおくにぬしのみこと}を加えて五柱とすべきことを主張した。大国主命は、言うまでもなく出雲大社の祭神である。本居宣長や平田篤胤の流れをくむ神道家および学者は、この意見に賛成した。しかし、伊勢神宮の大宮司である田中頼庸を中心とする伊勢派は、千家の主張を容れようとしなかった。

 千家尊福は執勘に論陣を張り、四度までも提議をおこなった。そのため日本中の神社は出雲派と伊勢派の二つのグループに分かれ、対立する形となり、論争は腕艇と続けられ、容易に決着がつかなかった。副島種臣や大隈重信が取調委員に選ばれたが、結論は得られなかった。

 明治十四(1881)年一月、天皇の勅裁によることとなって、尊福は遂に敗北するに至る。しかし、尊福の繰り広げた神道論は堂々たるものであって、彼なりに教義を体系化していることを示し、単なる思いっきなどではなく、神道そのものの理論を深めることに役立った。同時に、出雲大社と出雲神道の存在をより広く日本中に認識させることにもなった。

 江戸時代に御師(寺社に祈願する時に仲介をする祈祷師の称一たちの活躍によって、出雲大社の信仰は「甲子講」とか「出雲講」と呼ばれて、信仰団体が各地につくられていった。尊福は、まず「出雲大社敬神講」を結成し、これを「出雲大社教会」と改めて、教部省から認可を受けた。そして自ら一介の行者の姿となって、衆庶を教化し、大社教の組織をつくるために各地を巡回して歩いた。

 いま出雲大社の年賀参拝客の投げる賽銭が、一年間の総収入の半分から、三分の二に達するという繁栄ぶりを見せているのも、尊福のねばり強い布教活動に負っているところがある。

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