「誰も知らない事実など事実ではございません。過去とは亡霊のようなもの。現在のあなたを像造っているのは現在のあなたの気。現在のあなたの気の流れが、過去と云う幻を恰も現実のようにあなたの中に顕現させているに他なりません」
「そんなのは世迷言だ!どんな時でも事実は事実だ。曲げられるものじゃない。水の入った杯が割こぼれれば、水は溶れる。溶れたのは杯が割れたのが事実だからだろう。誰も杯が割れたことを知らなくたって、割れれば水は矢張り溶れるし、知らなかったからと云って杯が元通りになることなんかない。過ぎてしまったことは取り返しがつかないんだ!」
そうだ。もう後戻りなんか出来ないんだ。割れた容器のかけらを集め、継いで接いで元通りにしたところで、そんなものは使い物になる訳がない。隙からは水が溶れて、次次と溶れて−−−。所詮付け焼き刃は無駄な抵抗なのだ。そんなものは粉粉に砕いた方が好い。そんなものは。刑部は顎を上げた。
「果してそうでしょうか。その場合、元元杯があったことすら誰も知らなかったらどうでしょう。そうなら割れようが割れまいが関係ない。溶れた水はやがて乾くでしょう。乾いた後には割れた杯があるだけ。その場合、その杯に水が入っていたのかどうかは誰にも判らないではございませんか。元元割れていたのかもしれないし、元元割れていたのなら水の満ちていよう筈もない。杯が割れて水が溶れたと云う事実の事実たる所以は、そこで失効する。ただ割れた杯がそこにあると云う事実だけが有効となりましょう。更に、誰も知らないうちに破片が片付けられてしまっていたなら、最早その時そこで何が起きたのかさえ誰にも判らない。その時は、何も起きなかったと云うのが事実になってしまいましょう」
塗仏の宴-宴の始末