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京極堂を2倍楽しむ方法その5

富山の薬売り考察 その三、(昭和)

 

今回は、なんてこたぁ、無いんです。

ただ、備前(びぜん)国磐梨(いわなし)郡出身で、首相にまで成れそうな人物がいたという話です。その人物の名は宇垣一成

実は、近代史はよくわからないんです。ですから、富山の薬売りとも関係ないかも知れません。とりあえず、関係ありそうな資料を集めてみました。

この、和気氏というのが、吉備の古代豪族。もと藤野別(ふじのわけ)・磐梨別(いわなすわけ)を氏名とし,備前(びぜん)・美作(みまさか)の国造だった。

 

宇垣一成

陸軍大将。備前(びぜん)国磐梨(いわなし)郡出身。参謀本部総務部長,陸軍次官などを歴任。清浦,加藤高明,若槻の各内閣の陸相として軍縮,軍の近代化に努力。1931年の三月事件ではクーデタ内閣の首相に予定されていた。のち朝鮮総督となり,農山村振興,重化学工業の育成に努めた。1937年組閣の命を受けたが軍の反対で失敗。第2次大戦敗戦後公職追放されたが,1953年の参議院選挙で最高点当選。

桜会

1930年結成された国家改造をめざす陸軍将校の結社。ロンドン条約調印による統帥権干犯,浜口内閣の緊縮財政等に不満の参謀本部の橋本欣五郎,長勇ら中堅将校が中心になり,北一輝,大川周明ら右翼,国家社会主義者とも結んで国家改造を構想。三月事件,十月事件を計画,満州事変発生にも暗躍。十月事件後解体したが一部は統制派を形成した。

三月事件

1931年3月,未発に終わった陸軍中堅将校のクーデタ計画。橋本欣五郎中佐ら桜会の幹部が計画,陸軍中央部の杉山元,小磯国昭,右翼の大川周明,社会民衆党の赤松克麿,亀井貫一郎らが参画した。大衆デモで議会を包囲し,陸軍を動員して浜口雄幸内閣を倒し,宇垣一成内閣を出現させて国内改造を構想したが,計画不備と宇垣のためらいから挫折した。

十月事件

錦旗革命事件とも。1931年10月に発覚した軍部急進派のクーデタ計画。三月事件に失敗した陸軍の橋本欣五郎ら桜会幹部は,民間右翼の大川周明,西田税らと協力,歩兵十数中隊に海軍航空隊なども動員,若槻礼次郎首相以下を暗殺して荒木貞夫陸軍中将を首班とする内閣の樹立を計画した。事前にもれて未遂に終わったが,若槻内閣は倒れ,次の犬養毅内閣には荒木が陸相に就任。→皇道派

統制派

日本陸軍内の派閥。中心は旧桜会系統の参謀本部,陸軍省の中堅将校。クーデタによる国家改造を否定し合法的権力樹立のために政財界に接近,皇道派の派閥人事,クーデタ計画に強く反発。1934年陸相が皇道派の荒木貞夫から林銑十郎に交替後急速に優勢化,軍務局長永田鉄山を中心に皇道派を弾圧。二・二六事件で皇道派を一掃し軍の実権を握り,東条英機内閣で政権も掌握した。

皇道派

日本陸軍内の派閥。荒木貞夫,真崎甚三郎らが中心。十月事件後荒木陸相は宇垣一成陸相時代に形成された宇垣派を排除し,自派の派閥を形成。皇道精神を主唱するなど極端な精神主義で急進派青年将校の支持を獲得。相沢事件を起こし,二・二六事件で鎮圧されて衰退,統制派がかわった。

相沢事件

1935年8月陸軍中佐相沢三郎が陸軍省軍務局長少将永田鉄山を白昼斬殺した事件。皇道派の教育総監真崎甚三郎の罷免(ひめん)に憤激した相沢は,統制派の巨頭永田を斬殺した。皇道派は相沢の軍事裁判を統制派を弾劾(だんがい)する場と位置づけて西田税(みつぎ)らが中心となって統制派を攻撃,両派の対立は激化した。相沢は二・二六事件後の1936年7月死刑。

二・二六事件

1936年2月26日未明,皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデタ事件。皇道派青年将校は北一輝に接近,昭和維新の実現をはかり,武力による国家改造を計画,真崎甚三郎教育総監罷免,相沢事件など統制派の台頭に反発し皇道派の拠点であった第1師団の満州派遣を機に蜂起(ほうき)を決意。斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監を射殺し,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ,陸軍省,参謀本部,国会,首相官邸などを占拠,陸軍首脳に国家改造の断行を要請した。陸軍首脳は戒厳令をしいたが,海軍,財界がクーデタに反対であるのをみて弾圧に転換,反乱軍の規定も〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉と四転。29日反乱軍を鎮圧。首謀者や理論的指導者の北一輝らを死刑,皇道派関係者を大量に処分,統制派が実権を掌握。岡田啓介内閣は倒れ,軍の政治的発言権が強化された。

公職追放

俗にパージとも。1946年1月4日のGHQ覚書を契機として行われた戦争責任者,国家主義団体幹部などの戦争協力者の公職からの罷免(ひめん)および排除。〈日本人民を戦争に導いた軍国主義者の権力および影響力を永遠に除去する〉というポツダム宣言の精神に基づいて行われたもので,1947年1月4日の勅令で〈公職〉の範囲は広がり,追放は地方政界,財界,言論界に拡大され,1948年5月までに追放者は20万名を超えた。しかし1951年11月までに17万5000余名が解除。サンフランシスコ講和条約の発効に伴う追放令の廃止で全員解除。

ロンドン会議

1930年ロンドンで開かれた海軍軍縮会議。日・米・英・仏・伊の5ヵ国が参加したが仏・伊は途中で脱退。主力艦数を英・米各15隻,日本9隻と限定し,補助艦艇の総トン数比を英・米各10,日本7とするロンドン条約を締結。この結果は日本軍部の不満を招き,いわゆる統帥権干犯問題をひき起こし,民間右翼と軍部の結合による超国家主義運動が表面化する契機となった。1935年条約満期に伴う第2次ロンドン会議は日本と英・米の対立で実現せず,軍拡・無条約時代が始まった。
ど〜でしょか? Violet monkey

つづく・・・

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