庚申伝説考察-4
おー○さんの掲示板でのやりとりです。あまりに興味深いので無断転載させていただきました。
天海と明智光秀 投稿者:おー○
童歌「かごめ」の作者は日光東照宮を建造した天海僧正そのひとだという説がありますが、「かごめ」とは籠の目であり六角形をしている。これってフリーメイソンにも通じるのではないかと思っています。天海僧正も密教を土台にして日光東照宮を造っている節がある。その天海が徳川家康の嫡子の「秀忠、家光」の名付け親であり、いまもその時の直筆が東照宮に保管されている。その直筆の紙片は不思議な折りたたみ方がされており、「光秀」という名が出てくるようになっています。つまり明智光秀を示唆するようになっている。二代目、三代目将軍のそれぞれ一字が光秀となる。天海が日光の明智平の前で、懐かしいと言って涙を流した風説も、そのまま天海が明智光秀であるとするなら納得がいく。秀忠、家光の名付け親は明智光秀だった公算が大きいと考えるわけです。つまり明智光秀は本能寺の変以後、徳川家康に匿われていたのではなかったか、と思うのです。これを裏付けるために二冊の本を注文しましたが、いずれ詳しく書きたいと思います。庚申については日光東照宮の至る所に隠されています。庚申山など、その典型だと思っています。これは私が「黄金伝説」の中で解明しようとしていた課題のひとつでもあります。童歌の「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」も庚申に関係ありますよね。家光の子供たちの名前にもそのことが色濃く反映している。亀姫、亀松、鶴松というように・・・これらの符号を偶然とする方が無理があるように思えて仕方がない。日光東照宮の謎かけは天海大僧正の挑戦であるのかもしれない。
ハカイダー光秀?! 投稿者:Violet monkey
光秀1528?-1582 54才 惟任日向守天海1536-1643 107才 号は南光坊、勅諡は慈眼(じげん)大師
十分重なりそうですね、慈眼とはフリーメイソンの目を思わせます。フリーメイソンがコンパスと三角定規の達人である工人(荒神、庚申、猴人)ならば、築城術に長けていた光秀こそメイソンのようです。日光東照宮が要塞の体を成しているのも天海が光秀であれば納得ですね。
光秀が惟任日向守と名乗ったのには信仰上の匂いがします。惟任は、母の出自により天皇になれなかった惟喬親王のゆかりを感じます。何故かというと、その出身地の明智村は山深く、隠れ里と呼ぶにふさわしい感じで、隠れ里に隠棲した木地屋集団はその祖が惟喬親王であるとの伝説を河原巻物に記しています。
河原者と呼ばれた人々は技術や芸能に秀でた者が多く、さかのぼれば大化改新以降、律令制度の枠組みから故意にはずされた匂いが強く、蘇我氏がらみの渡来人達の可能性がありそうです。
日向守からは天照大神や大日如来を感じます。
山崎の戦で敗れ,敗走の途中土民に殺されたというのも、無理を感じます。
娘の細川ガラシャはイエズス会ですし、秀吉の対応も優しくて不思議です。
聖徳太子の本来の名前である厩戸豊聰耳皇子(うまやど・とよとみ・みのおうじ)だが、秀吉はここから豊臣をとったのではないか。また、聖徳太子の太の字の元字は泰で五行の徳と合わせると秦となる。聖の耳には「〜のみ=only」と言う意味があり、「ただ一人の王、秦氏の子」となる。しかし、厩戸の戸が理解に苦しむ。
光秀、秀吉、家康のラインはできレースと取れ無くもないですね。
秀吉の裏の人脈も被差別民上がりの人々のようですし、家康も虐げられた渡来人の一族と考えれば下克上と言う言葉も真実味が増してきます。そもそも田畑を持たない人々が強盗、盗賊団を結成し、自らも賊でありながら、律令制度の崩壊した農民に取り入って、「守ってやるからいくらかよこせ!」で豪族に成り上がったんではないかなどと想像するのです。血筋などは後から何とか成ったでしょう。今でも、全国規模の組織、香具師(やし)等があるように当時の河原者、木地屋、鋳物師、鍛冶は表舞台には出ないものの、裏の組織として結構、権力者を操っていたとは考えられないでしょうか。その虐げられた一族が蘇我氏を補佐していた秦氏だったとしたら、技術者集団としてのフリーメイソンがみえてきそうです。
天海というと天台宗、総本山は比叡山延暦寺。この延暦寺と日吉(ひえ)神社は信仰上関係が深く、山王信仰の総本山です。そして庚申信仰と習合して猿を祭っています。山伏、修験者、陰陽師も深く関わってきますね。ちなみに惟喬親王は皇太子になれなかった後、大宰帥(だざいのそち)などを歴任した後、出家して比叡山麓の小野に幽居したそうです。
被差別民の祖が秦氏で比叡山と関わりが深かったらば、織田信長の焼打を光秀も秀吉も家康も快く思っていなかったのでは?
次回は「たたら」をいきます。